浦賀奉行所(神奈川県横須賀市)与力 中島三郎助の生涯

25 10月 2016

  太平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も寝られずー

強制開国から明治期、わたしら日本人は300年間の平和ボケした本当に何も知らないお人よしだったのですね。英国東インド会社北米支店兼アメリカ海軍所属のマシュー カルブレイス ペリー(Matthew Calbraith Perry)提督が日本に来航して江戸城を砲撃するといって開国を迫った時、黒船艦隊旗艦サスケハナに乗船して隅々まで調査したのが浦賀奉行所与力中島三郎助です。特に蒸気機関は徹底して調べたようです。浦賀奉行は、最終の土方出雲守まで老中芙蓉の間詰め、12騎の与力、50人の同心からなり、当時長崎奉行所より上席を占めて(江戸に近いことから重要視された)小田原に次ぐ人口だったそうです。浦賀奉行所跡は、住友重機マリーナヴェラシスと今のL字桟橋(陸軍桟橋)の中間の西側浦賀4丁目、為朝神社の後ろ辺りにあり、今は住友重機の社宅になっています。面影はまったくありません。

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浦賀奉行所と現在の様子(防災倉庫のところの小さな柱に浦賀奉行所跡と名跡があります) 出典:横須賀風物百選 http://blog.goo.ne.jp/tivgdtd/e/68ab012065d0aece4248c12123920839

 

明治維新とは何だったのか?

維新の志士とは、今でいう『テロ集団』です。そのテロ集団には、下級武士集団 坂本龍馬、伊藤博文、井上聞多、西郷従道、西郷隆盛、岩倉具視、大久保利通、勝海舟(幕府内通者かもしれません)・・・・・・・などなど。坂本龍馬は夫人お龍さんを連れ、あちらこちらで密談を重ね薩摩と長州を結びつけたりしていました。彼は本当に日本中を動き回りました。旅費、食費、旅籠代、誰がそのお金を出していたのでしょうか? 彼は脱藩浪士、すなわち無職浪人です。お金を稼いでいるわけでもなし、実家も裕福ではないです。次の写真は、とても有名な写真、明治学院大学の学祖、ユダヤ系オランダ人グイド・H・F・フルベッキ博士(Dr. Guido H ermann Frid o’lin Verbeck)のフルベッキ集合写真と呼ばれているものです。とても贋作とは思えない写真であり、大体フルベッキを中心とする写真を贋作する意味がないと思います。今の世に知られる上野公園の『西郷どん』とは似ても似つかいない『西郷どん』が映っています!! また、幕臣勝海舟が敵方の志士と肩を並べて映っています。しかも何故ユダヤ系オランダ人のフルベッキ(フリーメーソン会員、坂本龍馬の影のスポンサートーマス グラバーもフリーメーソン会員)が長男とともに集合写真の真ん中に映っているのでしょうか??? 前の総理大臣鳩山由紀夫さんが何故あのように反日的な言動行動をするのか判りませんでしたが、彼はフリーメーソン会員だという噂があります。それなら納得がいきます。

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とても小さすぎて見えないと思いますので、是非『フルベッキ集合写真』としてネットで検索してみてください。心が震えるような写真です。 出典:Wikipedia

明治維新とは、イギリスが主導した内乱テロ誘導日本支配計画でした。イギリスは支那で第1次アヘン戦争、第2次アヘン戦争を行い、その間にはインド独立戦争(セポイの乱)を戦い多くの英国人将兵を喪いました。イギリスはそこから多くを学び、自国の人間を犠牲にするよりは、反政府運動に金と武器を与えて内乱を起こさせるのが得策と考えました。反政府運動が勝利すれば、武器弾薬を与えたテロ集団は、イギリスのいうことを聞くだろうと。小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ)は、そこを見抜いていたひとりだと思います。非常に頭の良い文武両道の英傑です。だから毒を以て毒を制することわざ通り、イギリスに対抗するためにフランスから人を入れ、徳川慶喜に徹底抗戦を進言し、最期にはその咎で薩長軍に斬首されました。徳川慶喜は惰弱者だったのです。腰抜け。卑怯者です。幕府軍一万五千人、反幕府軍(薩長軍)五千人。負けるはずがないのです。鳥羽伏見の戦いで自分だけ助かりたいために幕府軍の将兵を置き去りにして江戸に逃げ帰りました。慶喜に逃げるよう耳打ちしたのは勝海舟だったのかもしれません。フルベッキ集合写真がそれを物語っています。古来日本のやり方は、戦に負ければ、大将が自分の首を差し出して終わりのはずです。美しい日本のやり方。戊辰戦争はそうではなかったのです。イギリス方式の徹底した皆殺しでした。

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戊辰戦争進路 画像出典:Wikipedia

 

さて、中島三郎助です。

彼は、腹心の通訳を連れ、幕府の高官のふりをして単身サスケハナに乗り込んだサムライです。後に幕府海軍教習所で勉強したり鳳凰丸(幕府浦賀造船所で建造)の建造主任者になったりしたり、大活躍でした。もともとは近藤勇の天然理心流と坂本龍馬の北辰一刀流の免許皆伝の腕前。この後、三郎助は軍艦頭取手伝から軍艦頭取に昇進し、同時に家格も御家人から旗本へと昇格しますが、慶応2年、喘息などの持病もあり三郎助は46歳でそれらの役職を辞し、奉行所の与力も辞して長男の恒太郎に後を継がせ、隠居に入りました。

結局、慶喜は薩長らの西軍に全面降伏し、江戸城も放棄して(無血開城といわれていますが単にイギリスが江戸を焼きたくなかったために勝海舟と西郷隆盛がイギリスのシナリオ通りに事を運んだだけです)、それまでの四百万石という資産を没収され七十万石に減封された上で駿河へと移封されました。慶喜は腰抜けです。幕府が完全に崩壊した事(イギリス主導によるクーデターの成功)を受け、徳川海軍の事実上の司令官の地位にいた榎本武揚は、徳川家臣団による蝦夷地開拓の許可を新政府に嘆願しますが、結局これは拒絶され、そのため榎本は、奥羽越列藩同盟と合流するため艦隊を率いて品川沖を脱走しました。この時三郎助は、浦賀奉行所の与力であった二人の息子、恒太郎と英次郎や、かつて浦賀奉行所で三郎助の配下であった者達と共に開陽丸に乗り込み、この脱走に参加しました。開陽丸はのちに座礁して沈没してしまいますが当時最新鋭の開陽丸が活躍すれば戊辰戦争は違った結末を迎えたかもしれません。

この脱走に当たって、三郎助は出陣の理由と決意を以下のように記しています。『慶応四辰年 将軍辞職ノ挙ニ乗シ 王側ノ奸悪恐多クモ冤罪ヲ負ハシム。此ニ於テ 北軍同盟ノ諸侯公会ヲ助テ義兵ヲ起シ 実ニ天下騒乱 戦国ノ世トナル。因テ三郎助 恒太郎 英次郎三人 主家報恩ノ為ニ出陣スル也』美しい文章です。明治2年5月16日午前3時頃、五稜郭に籠った三郎助に対して京都政権軍(クーデター軍)は千代ガ岱陣屋に猛攻撃をかけ、三郎助は砲隊五十余名と共に激しい戦闘を展開し、もはやこれまでと悟った三郎助は、大量の火薬を詰めた大砲に跨り、引き寄せた敵もろとも自爆せんとしましたが、雨のために点火が成らず、やむなく三郎助は白兵の接戦に出る事にし、長男恒太郎(この時22歳)、次男英次郎(この時19歳)と共に刀を抜いて敵部隊に突入し、壮絶な戦死(三郎助享年49歳)を遂げました。戦死する前日に三郎助が詠んだ句は『郭公(ほととぎす)我も血を吐く思ひかな』(信長を思ったか?)と伝えられています。立派な男です。

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画像:鳳凰丸(浦賀造船所で建造)と五稜郭 出典:Wikipedia

中島三郎助はよもや自分がイギリスの手先と戦っているとは夢にも思わなかったでしょうが、こういう歴史を経て今の日本が築かれてきたことを思えば、感慨無量です。薩長軍が頼みとしたイギリスは、日本帝国海軍にその多くを残しましたが、近代日本の礎となった横須賀製鉄所→横須賀造船所は薩長軍=イギリスによって打ち首となった小栗上野介忠順が招聘したフランス人技術者ヴェルニーの尽力によって日本人自身が成し遂げたものです。それにしても何故小栗上野介忠順を殺さねばならなかったのか? 日本人なら先ずやらないと思います。イギリス人は彼が怖かったのだと思います。日露戦争日本海海戦で完全勝利を遂げた東郷平八郎元帥は、薩摩海軍の出身ですが、戦争終結後、小栗上野介忠順の遺族を訪れて『日本海海戦の勝利は小栗上野介忠順が横須賀製鉄所を作って日本の礎を築いてくれた御陰です』と遺族に感謝の意を伝えています。東郷提督は、小栗家遺族にすれば、敵軍の将ですが、流石に立派な日本人です。話は飛びますが、この東郷さんがよく長逗留した横須賀海軍料亭小松(明治18年開業)が火事で全焼(2016年5月16日17:00頃)してしまいました。残念です。

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画像出典:Wikipedia

 

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