東郷平八郎という偉人(2)薩英戦争

30 11月 2016

生麦事件という薩英戦争のきっかけになった事件がありました。薩摩藩島津久光の大名行列が幕末文久2年8月21日1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていたウッドソープ・チャールズ・クラーク、横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャル、マーシャルの従姉妹で香港在住イギリス商人の妻であり、横浜へ観光に来ていたマーガレット・ボロデール夫人、そして、上海で長年商売をしていて、やはり見物のため来日していたチャールズ・レノックス・リチャードソンです。(以上wikipediaより)この人たちは、観光で川崎大師に行こうとしていたようです。道幅一杯に広がって行進している大名行列に下馬もせず騎馬のまま乗り入れました。イギリス人特有の傲慢さを感じます。みなさんは、この事件をどう思われるでしょうか? わたしは、切られて当然と思います。薩摩藩士はそれでも騎馬が島津久光公の御駕籠に近づくまでギリギリまで我慢していました。皆さまはこの所業を野蛮だとお感じになりますでしょうか?

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画像出典:Wikipedia 左:事件当時の生麦村。東海道にそった集落の神奈川宿寄りのはずれ、リチャードソン遺体発見現場(落馬地点)近辺と見られています。右:『生麦之発殺』(早川松山画)明治になって想像で描かれた錦絵で、名前が出ているのは島津久光小松帯刀のみ。当時は久光の武勇伝として一般に親しまれていました。

みなさまはマララ・ユスフザイさんを憶えてお出ででしょうか?2014年のノーベル平和賞の受賞者です。受賞時はわずか17歳でした。彼女は、パキスタン人ですが、有名なパシュトーン族の出身です。パシュトーン族では、女性が教育を受けることが言語道断の所業と考えられています。そのため彼女はスクールバスの中で原理主義者から銃撃を受け、その後イギリスで治療を受け、九死に一生を得ました。なにか生麦事件を思い起こしませんか?マララさんを銃撃した人は、宗教上当然のことをしたにすぎません。しかし、そのことに関して外部の私たちがとやかく言う筋はないと思います。わたしは、モスリム(イスラム)の教義がいい悪いというつもりは全くありません。民主主義がいいとか悪いとか言うつもりもありません。ただ郷に入れば郷に従わなければなりません。固有の文化なのだから。わたしたちの2600年にも及ぶ日本文化がグローバリゼーションというユダヤ国際金融資本の波に飲み込まれようとしています。島津久光の大名行列に騎馬で乗り入れたイギリス人たちは傲慢であるのみならず、自分の文化だけが一番とする唯我独尊のバカです。当然のことをされたと思います(上海の居留地と同一視していた感があります)。

そして、イギリスは生麦事件をきっかけに幕府から10万ドルの賠償金を得たばかりではなく、イギリス人らしい欲深さで薩摩藩にさらに10万ドル(2万5千ポンド)の遺族養育費を要求しました。2016年現在のアメリカのシリア等中東に対する態度を彷彿としませんか?この要求を断固として刎ねつけた薩摩藩(幕府は何をしていたのでしょうか?)とイギリスとの戦争になりました。このとき東郷平八郎(敬称略)17歳(数え年ー満15歳)、初陣でありました。ただし、薩摩水軍ではなく、町田民部の手に属して旗本勢となり、初めは鶴丸城の二の丸を固めますが、その後は北西方に転戦して、警護の任に当ります。戊辰戦争では官軍(薩摩水軍)として宮古湾海戦と箱館海戦に従軍しました。新政府海軍の砲術士官として春日(薩摩水軍所属)に乗船していましたが、この回天による奇襲の衝撃を、「意外こそ起死回生の秘訣」として後年まで忘れず、日本海海戦での采配(T字戦法)にも生かしたと言われています。

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画像出典:Wikipedia 左:後列右23歳の東郷平八郎 薩摩水軍砲術士官 右:薩英戦争

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画像出典:Wikipedia 右:左 甲鉄(官軍)と右 回天(幕府軍)宮古湾海戦における接舷の図 右:薩摩水軍軍艦『春日』もとイギリス船籍キャンスー号(『江蘇号』) 東郷平八郎3等砲術士官

戊辰戦争は、イギリス主導による日本国内戦を経ての徳川幕府打倒計画です。あるいは、イギリス(薩長)とフランス(幕府)の代理戦争の様相さえ呈していました。東郷平八郎は、薩英戦争、戊辰戦争(阿波沖海戦箱館戦争宮古湾海戦)を経て、明治26年(1893年)、ハワイ王国リリウオカラニ女王が米国との不平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発したアメリカ人農場主らが米国海兵隊160名の支援を得てクーデターを起こし、王政を打倒して「臨時政府」を樹立しました。アメリカ人得意の侵略です。この時、日本は邦人保護を理由に東郷平八郎率いる巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇しました。明治27年(1894年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦高陞号事件)、黄海海戦威海衛海戦で活躍します。威海衛海戦後に少将に進級し同時に常備艦隊司令官となりますが、戦時編成のため実際には連合艦隊第一遊撃隊司令官として澎湖島攻略戦に参加しました。日露開戦前の緊迫時期の明治36年(1903年)10月、海軍大臣・山本権兵衛に呼び戻され日高壮之丞に代わり常備艦隊司令長官に任命されました。同年12月に連合艦隊が編成されることになると第一艦隊連合艦隊司令長官に任命されました。明治天皇に理由を聞かれた山本は「東郷は運のいい男ですから」と奏したと言われています。明治天皇もそれで納得するのですから日本人万歳という思いがします。

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画像出典:Wikipedia 東郷元帥は日本人の誇りです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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