「いすゞ自動車」って知っていますか?

13 1月 2018

いすゞ自動車、漢字で書くと五十鈴自動車です。1930年代から4輪自動車を造り続けてきたわが国固有の自動車メーカーです。一時アメリカのGMと提携していた時もありましたが2006年に解消して以来、独自の地位を築いています。経営不振により1990年代には乗用車生産から完全に撤退し、2018年現在、生産をトラック、バス、特殊車両に限定しています。

なにを隠そうわたしの生まれて初めてのクルマが中古のいすゞ車でした。「フローリアンTS(ツーリングスポーツ)」です。

画像出典:Wikipedia

懐かしいな~。下段左には、「東名高速全通を目前に・・・」って書いてあります。東名高速が全通したのはいつのことだったか? 自分の年(2018年64歳)から考えると学生だった二十歳代のことですから、40何年前ですね!ハンドルの中心の飾りがまるで豚の鼻みたいな感じで(下画像参照)、友達からは「大野のブタ―リアン」と呼ばれておりました。

画像出典:Wikipedia これがハンドルの真ん中についていました

 

動画出典:Youtube

全く人気がなく安くカッコ悪いクルマの代名詞のようにいわれたフローリアン、実はイタリアの巨匠ジウジアーロのデザインです。そしてフローリアンの別名は、117クーペセダンです! その117クーペとは?

画像出典:Wikipedia

内装もチョーカッコよかったです。ただ、新車でも中古でも大変高価でした!1968年当時の販売価格は172万円でした。ジウジアーロにデザインを依頼したものの、当時のいすゞは貧乏で117用の新しいプレスラインを新設するお金がなく、大まかなラインをプレスしてから後は手作業で仕上げるという工程に拠ったため、生産台数が極端に少なく、またハンドメイド117と呼ばれました(第2世代からはデザインが変わり、完全に機械生産になりました)。室内には発泡皮革を使い、ダッシュボードには台湾楠を使うなど、月産30~50台というものでした。生産状況はトヨタミライに凄く似ています(2018年現在1日/2~3台)。

画像出典:Wikipedia

どうです? 1968年(昭和43年)、2018年から遡ること50年です! カッコイイでしょう! 本当に高嶺の花だったです。

 

動画出典:Youtube

いすゞ自動車は、いいものを生産する力がありながら、経営がうまくなかったようです。以下:

「いすゞ」の名は伊勢神宮(三重県伊勢市)の境内に沿って流れ、神宮における潔斎の場ともなる五十鈴川に由来します。元は商工省(現経済産業省)標準形式自動車として、前身となったメーカー各社と当時の鉄道省1933年(昭和8年)によって共同開発された大型自動車の名前です。1929年(昭和4年)、 株式会社東京石川島造船所(1893年明治26年設立)の自動車部門として株式会社石川島自動車製造所となって独立、その後いすゞ自動車になります。

いすゞ」の文字を五十鈴川の12のさざなみで囲んだ初代社章デザインは、日本最初の図案デザイナーと言われている「銀座・島丹誠道」の島欣一氏です。なぜ12なのかは解りません。なにか意味があるのかもしれません。

 

画像出典:Wikipedia いすゞの文字は「いす」ではなく、「いす」が正式名称です。これは、書家永坂石埭の書風です。

ところで懐かしい名前が出てきました。「石川島(播磨)造船所」です。いすゞの大本はこれだったんですね。

石川島播磨造船所は、1853年(嘉永6)、幕命により、水戸藩が隅田(すみだ)川河口の石川島につくった日本最初の洋式造船所。当時、江戸・佃島(つくだじま)の一角で人足寄場(よせば)があった石川島に、水戸藩主徳川斉昭(なりあき)が費用を投じて建設した施設で、幕末に帆船4、蒸気砲艦1隻を建造。明治維新後、兵部省所管から、1872年(明治5年)海軍省へ移管され、その4年後には民間に払い下げられて、平野富二(とみじ)のもとで民営平野造船所として経営。多数の商船や軍艦を建造しました。1893年に株式会社東京石川島造船所、1945年(昭和20年)に石川島重工業となり、さらに1960年に石川島播磨(はりま)重工業、2007年(平成19年)にIHIと改称され、現在に至っています。(コトバンク[石塚裕道]より)

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