ゴーン事件の原因 塩路一郎

23 12月 2018

塩路一郎、元ニッサン労組委員長、自動車総連会長です。ニッサン社内では『塩路天皇』と呼ばれました。この人の経歴は普通の左翼運動家と違って、当初は反労組のひとでした。このひとがニッサンの足を引っ張るだけ引っ張りました。ゴーン事件の影の立役者です。

さらにいえば、このひとお父さんが若い時に亡くなり、苦労して明治大学夜間部に進学し、反組合を掲げてニッサンに入社すると反組合活動を展開し、日本興業銀行からきた川又克二社長とタッグを組んで組合潰しをしました。その後今度は自分が組合を結成し、あとはやりたい放題。ニッサンを事実上潰した挙句、スキャンダルで失脚しました。

この人は2013年食道癌86歳で亡くなりましたが、わたしこのひととゴルフを何回かしたことがあります。この時は名前も知りませんでしたが、常に取り巻きの女性を複数人引き連れ、にぎやかな人だなと思った記憶があります。

自動車関連英語の翻訳をされているという話でしたが、なるほど会社の金でハーバード大学に留学しただけのことはあるわい。以下wikipedia(部分掲載)から:

1972年、自動車総連を結成し会長に就任。労働界では民間労組主導型の労働戦線統一の推進者となり、1980年に「労働戦線統一推進会」を発足させた。1982年に全日本民間労働組合協議会の結成に際して副議長となった。また1969年に国際労働機関理事に当選するなど、国際的な活躍も華々しいものがあった。1975年の東京都知事選挙では石原慎太郎の参謀四人衆の一人(他は浅利慶太、牛尾治朗、飯島清)として選挙運動を指揮する。

1977年、社長に就任した石原俊は、世界市場の1割確保を目標とする経営方針「グローバル10」を策定し、積極的に海外進出を進めていった。その一環として、英国工場建設を計画したところ、塩路は猛反対し、「強行したら生産ラインを止める」などと迫った。これを期に、経営陣との関係が険悪化していった。その後、芸者遊び、部下の妻を淫行し、芸妓など数人の愛人がいたセックススキャンダルが発覚し、長年塩路体制下で不満を鬱積させていた職制組合員からの突き上げを受け、1986年に一切の役職を辞任し、労働組合から引退した。1987年には定年退職したが、かつての影響力は失われていた。

画像出典:Wikipedia

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要するにニッサンという日本人の技術力、努力、真面目さという宝に蟻がたかるように食いつきめちゃくちゃにしてしまった人達がこれです。そして首切りゴーンという屠殺人(とさつにん)にめちゃくちゃにされたニッサンを取り戻す仕事を日本検察がやっているわけです。

 

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