幕臣小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)

02 10月 2016

■小栗上野介(1827-1868 41歳)

徳川家の旗本小栗家(神田駿河台に生まれ、1860年(万延元年)34歳の時、井伊大老の抜擢により日米修好通商条約批准の遣米使節(目付・監察)として、米艦ポウハタン号で渡米、さらに二隻の船を乗り継いで地球一周して帰国(咸臨丸ではないことに注意)しました。その後の八年間幕政をささえ、日本の近代化を押し進めました。この八年間で小栗は近代日本の基礎を作りました。小栗は情報収集能力に非常に長けていた人物だと思います。その上で自分が幕臣として何をしなければならないか将来を見据えてよく判断していったと思います。日露戦争日本海海戦で有名な東郷元帥は、戦後小栗上野介の子孫を自邸に招き、日本海海戦に勝てたのは横須賀製鉄所の御陰であるとして、感謝の意を伝えるとともにその子孫に自身の揮毫をしています。東郷元帥は、よくものの判った立派なひとと思います。

慶応四年三月、恭順にあくまで反対したため幕府の任を解かれ、帰農許可を得て領地である上野国権田村(群馬県)に移住しました。65日後の同年閏四月六日、西軍(明治新政府軍 要するに薩長軍)のため罪なくして(冤罪)水沼河原で家臣三名とともに斬首されました。

どうして横須賀製鉄所?

米国で遣米使節一行は、鉄がふんだんに使われているのに驚き、ホテルの外柵、橋や欄干まで鉄で…、と日記に書きました。欧米先進国に追いつくために何から手をつけたらいいか模索していた小栗にとって、製鉄を基礎として、造船だけでなくあらゆる鉄製品を生み出す総合的重工業の施設見学は「小栗は米国の文明の利器を日本に導入することに大賛成だといわれている」(NYタイムズ)と報道されるほどのもので、この施設から日本を「木の国から鉄の国へ構造改革できる」と確信し、帰国五年後に建設着工にこぎつけました。ボルト一本も日本製がない時代に日本の近代化の主役を担った造船所は、悔しいことですが大東亜戦争敗戦後のいまも米海軍横須賀基地としてそのまま稼動しています。

小栗上野介は偉大な人です。横須賀製鉄所建設途上で次の有名な言葉を残しています。『これで土蔵付き売り家になる』と。もうひとつ幕府の瓦解するを知り、「病(やまい)の癒(い)ゆべからざるを知りて薬(くすり)せざるは孝子の所為(しょい)にあらず。国亡び、身倒るるまでは公事に鞅掌(おうしょう)するこそ、真の武士なれ」

また、治世についてこんなことも言っています。2016年築地から豊洲に移転するにあたって盛り土をしたしないでもめている東京都、よく耳をかっぽじって聞きなさい。このひと神田駿河台の生まれですから。

「船を置き橋を渡すも布施の檀度(だんど)なり。治生産業(ちしょうさんぎょう)もとより布施にあらざることなし」 

 「川に船をおいて旅人を向こう岸へ渡し、あるいは川に橋を架けて便宜を図るのは布施ですよ。治生産業(ちしょうさんぎょう・政治を行い、産業をおこすこと)はみんな布施ですよ」

美しい言葉です。この匂い立つような美しい日本武士を薩長軍は邪魔だとして殺してしまったのです。如何にも足軽集団が考えそうな卑しいやり方です。生きていればどれだけ日本の役に立った人かわかりません。僅か41歳だったのですから。東郷元帥は、薩長の片割れ、薩摩の海軍軍人出身ですが、さすがに解っていらっしゃると思いました。こういうことを日本を今後背負っていく子供たちに教えたいです。何をするべきか、何をすべきでないかと。そしてどう生きれば美しいとひとから言われるのかと。

 

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小栗上野介忠順(1827-1868) 出典:http://tozenzi.cside.com/kotoba-kokuminrifuku.html 東善寺HPより

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大日本帝国海軍東郷元帥 出典:東善寺HPより

 

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東郷元帥が揮毫した書 小栗上野介子孫へ 出典:東善寺HP

 

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