東郷平八郎という偉人(4)-日露戦争ー

02 12月 2016

日露戦争海戦のキモは2つあります。

ひとつ、射撃の正確さ。ふたつ、ロシアバルチック艦隊がウラジオストックに行くまでどこを通ってくるかです。対馬海峡か津軽海峡か? 衛星やスマホのない時代、歴戦の勇士東郷平八郎(敬称略)は、この戦に備え何を考え何をしたのでしょうか。日本海海戦前の鎮海湾での訓練では、3万発を(3万発ですようぅ)、わずか10日間で使い切り、あとから弾薬を補充して訓練を続けるという状況だったとのことです。一日3,000発、12時間訓練したとしても一時間250発です!! 凄くないですか?? 1分間に4発強です。この戦いに負ければ、日本がロシアに蹂躙されると一兵卒に至るまで思い詰めていたことが想像されます。嗚呼、日本人はエライ!! 凄い集中力ですね。これも将官東郷平八郎の胆力によるところが大きいのではないでしょうか。悠然と構えて無口だからこそ、将兵は安心して黙ってついてくるのです。わたしたちの今があるのはこのようなご先祖様の御陰です。

1905年5月26日午前零時過ぎ、

バルチック艦隊随伴の石炭運搬船6隻が上海に25日夕方に入港したという情報が大本営に入電しました。運搬船を離脱させたのは、航行距離の長くなる太平洋ルートを通らないことの証明でもありました。そして石炭運搬船のような船が艦隊にいれば艦隊行動は大きく制限されます。そのための当然の処置です。この情報によって連合艦隊は落ち着きを取り戻し、対馬海峡でバルチック艦隊の到着を待ったのです。そして有名なT字戦法です。T字戦法については言葉でぐちゃぐちゃいうよりも画像を見ていただいたほうが解りやすいと思います。連合艦隊は、単縦陣で進行してきますから敵前大回頭を行うためにはある一点で次々に回頭しなければなりません。そこを狙われたら非常に拙いことになります。しかし、東郷元帥は、バルチック艦隊の射撃能力を正確に把握し、当たらないとして(だいぶあたりましたけれど)回頭に踏み切りました。回頭する必要があったのです。逃がすわけにはいかないのです。有名な秋山真之の大本営への打電『本日天気晴朗なれども波高し』とは、波が高いと照準がなかなか定まらないということを報告しています。そして、東郷元帥本人がどう考えていたのかは不明ですが、T字戦法を考え出した秋山真之の伝記を愛読書として遺族が棺に入れていました。秋山参謀は既に亡くなっていましたが、黄泉の旅路のお供になったことでしょう。

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画像出典:Wikipedia

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画像出典:Wikipedia 左:東郷平八郎連合艦隊司令長官 右:ジノビー ロジェストウエインスキー バルチック艦隊司令長官

東郷元帥は戊辰戦争から日清戦争そして日露戦争と歴戦の勇士です。しかし、ロジェストウェインスキー司令長官は、ロシア宮廷で見栄えのする軍人であり、実戦の経験はありませんでした。

 

画像出典:坂の上の雲(NHK)youtube

生きていくことはいつも綱渡りです。このような立派な人が日本人のご先祖様にいることはとても嬉しいことです。

さて、東郷元帥のひ孫海上自衛隊勤務の東郷宏重2等海佐(2012年当時)が下の画像です。

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画像出典:Wikipedia

一年に一回六月に東郷神社で親戚一同が集まるそうです。下記PDFに詳細を掲載します。

 

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日本海海戦、その後 小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ)

明治45年夏、東郷平八郎は小栗上野介の遺族を自宅に招き「日本海海戦で完全な勝利を得ることができたのは、小栗上野介さんが横須賀造船所を作っておいてくれたおかげです」と礼を述べました。その理由は以下の通りです:


1、水雷艇・駆逐艦  日本海海戦で戦った三笠をはじめとする大きな戦艦はほとんどがイギリス、ドイツ、アメリカ製(?)でした。昼間の戦艦どうしの砲撃で傷つき逃げるロシア艦を追って、夕方になって出撃を命じられた駆逐艦・水雷艇が、猛スピードで間近に接近し、水雷を放って確実に沈め、完全な勝利をもたらしました。それらの中小の水雷艇・駆逐艦のほとんどが横須賀と呉で造られていました。
2、修船場  造船とともに発達した艦船の修理技術が、バルチック艦隊を迎える前の連合艦隊艦船の完璧なオーバーホールを可能にし、最大限の艦船能力を引き出せたことがあります。幕末~明治に人夫が手でモッコとツルハシによって掘りあげたドライドックの存在がとくに大きかったのです。

以上二つが日本海海戦においてどれほど役立ったことか、という東郷の感謝につながりました。もし、日本海海戦に敗れていれば日本海は自由に往来できない海となり、ロシアに首根っこを押さえられた日本の国運はかなり違った方向に展開していたことでしょう。小栗殿が「いずれ土蔵つき売り家になる」と笑ったその土蔵が国を救ったのです。

 

◇小栗殿の遺族をご馳走してもてなしたあと東郷は、その日の記念として自分の書を送りたいと申し出ました。小栗貞雄は、「自分は婿として小栗家に入ったので、小栗上野介忠順の血はつながっていません。しかし、せがれ又一は小栗上野介の血を引いた孫です。せっかく揮毫(きごう)してくださるならその書の為書(ためがき…○○の為に書いたという宛名)は自分の名にしないでせがれ又一の名前にしていただきたい、とその名前の由来も説明しました。
戦のたびにいつも「一番槍は小栗殿!」という報告が来ることから「また一番か」ということで四代忠政が家康公からもらった名が「又一」で、小栗家は代々その名をほまれとして上野介も又一を名乗っていたことを聞いて、東郷は顔をほころばせ、「それはいい名前をもらったね」と快く承知し、しばらくして小栗家に届けられた書には「仁義禮智信  為小栗又一君」と書かれていました。小栗家の子孫は、斬首という刑罰で世を去った忠順の名誉が未だ晴らされていないとして、運動中であります。わたしも是非東郷元帥とともに、ユダヤ系イギリスの命令で岩倉具視ごときが日本の宝である小栗上野介忠順を殺した非を糺す一助になれば幸いです。(以上東善寺 http://tozenzi.cside.com/tougou.html 記事出典)

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画像出典: 左:wikipedia 右:http://tozenzi.cside.com/tougou.html 東善寺提供

 

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