何故かというと、理由は、文禄(ぶんろく)の役(1592〜1593)、慶長(けいちょう)の役(1597〜1598)で朝鮮半島に攻め込んだからなのだそうです。南朝鮮は子供に教科書で嘘の歴史を教えています。その一例として、安重根(安重根)がいます。この人は支那ハルピン駅で丸腰の日本老人(伊藤博文)を射殺したテロリストですが、南朝鮮ではこの人が英雄なんだそうです。テロリストを英雄なんてふざけるな!
画像出典:Wikipedia 安重根品のねえ顔してるな~
さて、秀吉の朝鮮出兵について、本当のところをお伝えします。それは、次のような理由からでした:
文禄の役
画像出典:Wikipedia 豊臣秀吉
スペインの存在。
秀吉の朝鮮出兵は、スペインによる東洋の支配に対して、統一国家をやっと形成した日本が、いかに国を護るかを考えた上での決断であった、ということです。つまり、日露戦争のロシアと同じように当時の「明」がスペインに植民地化されたら日本はひとたまりもない状態であり、少なくとも朝鮮半島という緩衝地帯が必要でした。
慶長元(1596)年のことです。
スペインの貨物船、サン・フェリーペ号が、荷物を満載したまま遭難し、土佐(現高知県)の浦戸に漂着したのです。
救助した船員たちを、秀吉の五奉行の一人である増田長盛が取り調べにあたりました。
そこで驚くべき事実があきらかになります。
なんとサン・フェリーペ号の水先案内人が、増田長盛に世界地図を見せ、
「スペイン国王は、まず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると、次は軍隊を送り、信者に内応させて、その伝道地の国土を征服するから、世界中にわたって領土を占領できたのだ」と証言したのです。フランシスコ・ザビエル。
・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そして秀吉がとった施策は:
文禄の役(1592〜1593)、慶長の役(1597〜1598)と二度にわたる朝鮮出兵を行なうのですが、同時に秀吉は、スペインとも果敢な政治的交渉を行なっています。
何をしたかというと、スペインに対して、日本に臣下としての礼をとれ!と申し出たのです。
最初にこれを行なったのが、文禄の役に先立つ1年前、天正18(1591)年9月のことです。
秀吉はスペインの東亜地域の拠点であるルソン(フィリピン)総督府に、原田孫七郎を派遣し、「スペインのルソン総督府は、日本に入貢せよ」との国書を手渡します。
世界を制する大帝国のスペインに対し、真正面から堂々と「頭を下げて臣下の礼をとって入貢せよ」などとやったのは、おそらく、世界広しといえども、日本くらいなものです。
まさに、気宇壮大というべきです。
(以上ねずさんのひとりごとより)
画像出典:http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1582.html 小名木善行(おなぎぜんこう)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
豊臣秀吉は、わたしたち日本人の誇るべき祖先です。南朝鮮の人がファンタジー歴史でなにを言おうが関係ないです。日露戦争でロシアが南下侵略政策をとったときとよく状況が似ていました。
そして2015年、慰安婦問題で日本と南朝鮮は「不可逆的合意」をしたにも拘わらず、南朝鮮は何か騒いでいます。嘘ばかりでまったく信用のおけないひとたちです。無視、国交断交に限ります。
トラックバックURL