日本航空123便 墜落事故

14 8月 2017

1985年8月12日に発生したJAL123便の墜落事故は、2017年に至るも単独の航空機事故としては世界最大のものとなっています。

JAL123便墜落事故の概要

JAL123便(JA8119)ボーイングB747SR(ショートレンジ 近距離型、車輪を強化)-100型機は、1985年8月12日18時04分にスポット18から出発しました。乗員15名(運航乗員3、客室乗務員12)とお盆の帰省客及びビジネス出張の乗客509名計524名が搭乗して羽田を出発、大阪行き(当時は新幹線よりも速かったのです)でしたが、大島沖で異常が発生し、操縦不能のまま群馬県上野村の御巣鷹山に墜落しました。機体は、御巣鷹山の南側斜面の木々をほぼ背面状態で切断し、尾根に激突してから尾部が脱落して北側のすげの沢に転落しました。この尾部々分では奇跡的に4人の生存者が発見されました。

コクピット乗員の略歴

  • 運航乗務員(年齢・総飛行時間は共に事故当時)※通常コックピットは機長が進行方向左席、副操縦士は右席に着席するが、当日は副操縦士の機長昇格訓練が実施された為、着席位置が逆になっている。

 

氏名 年齢 出身地 総飛行時間 備考 当日の動き
機長 高濱 雅己[※ 6]
(たかはま まさみ)
49歳 秋田県 12,423時間41分 運航部門指導教官 最初のフライト。
副操縦士席で佐々木副操縦士の指導や無線交信などを担当。
副操縦士 佐々木 祐
(ささき ゆたか)
39歳 兵庫県神戸市 3,963時間34分 機長昇格訓練生
DC-8では機長として乗務。
別の機に乗務してからJA8119に乗り換え。
訓練の為、機長席に座り、操縦とクルーへの指示を担当。
航空機関士 福田 博
(ふくだ ひろし)
46歳 京都府 9,831時間03分 エンジニア部門教官 羽田 – 福岡線363・366便でJA8119に乗務。

画像出典:Wikipedia

事故から約1週間後、ボーイング機製造国アメリカのNTSB航空事故調査官ロン・シュリードが来日しました。現場につくとすぐ、「後部隔壁」が事故原因だといい始めました。以前JA8119は大阪空港で尻もち事故を起こして後部隔壁にひびが入り、ボーイングが修理していた経緯があり、「修理に間違いがあった」と言明しました。以後、事故調査はこの方針に沿って進められることとなりました。現場では、当該後部圧力隔壁もバラバラになっており、むしろシュリード氏の言葉によって探し出したくらいです。おかしくないですか?

画像出典:Wikipedia

画像出典:Wikipedia 左:後部圧力隔壁の場所 右:正しくは金属を重ね合わせてリベットを打たなければならないところ、重ね合わせの量が足りません。その意味では確かに修理ミスです。

NTSB(米国家安全輸送委員会)航空事故調査官 ロン・シュリード氏の役目

当時B747は、世界の航空会社の主力機になっており、世界中で300余機が飛行していました。航空事故が一旦発生すると、事故原因がはっきりするまで同型機は飛行停止になります。御巣鷹山事故でB747が飛行停止になると世界中の航空会社の経営が行き詰りました。ほとんどの海外便が飛行停止になるということは、ずばり倒産です。

ロン・シュリードはそのためにボーイングから送り込まれた人です。

事故報告書は、後部圧力隔壁の修理ミスによって、大島上空付近で爆発的に破壊し、客室内からの与圧空気が一瞬で漏れ、それが垂直尾翼を破壊したとのストーリーになっています。垂直尾翼が破壊されたときにそこに通っていた4本の油圧配管を全て引きちぎったために、操縦不能になって墜落に至ったとの構成でした。

垂直尾翼倒壊の謎 急減圧はあったか?

しかし、客室内の空気が音速で噴出したからといって垂直尾翼が壊れるものでしょうか?垂直尾翼は、B747機の巡航速度約Mach0.8(音速の約8割)という速度に安全率2倍くらいを考慮に入れた、十二分に耐える構造のものです。

次の文章は、日航もとパイロット、藤田日出夫(故人)さんの著作「あの航空機事故はこうして起きた」からのp26「急減圧はあったのか」からの抜粋です。

事故報告書の辻褄合わせ:事故報告書の急減圧はすさまじいものです。曰く、事故初期:毎分30万フィート(約10万メーター)平均28万フィート(約9万3千メーター)の減圧が発生したと記載してあります。あり得ない数字です。これはどのくらいの減圧があれば、修理ミスのある後部圧力隔壁が壊れるか実験を行い、そこから机上の計算で導き出したものです。

急減圧 ラピッド・デ・コンプレッションとは?

123便機内の様子

1万4千フィート(約4600m、富士山頂が3333m)以上の高度で急減圧が発生した場合、機内のどの場所であっても、人間の肺からは一瞬で空気が吸いだされ、酸素マスクを装着しないとすぐ気を失います。当時の操縦席のドアは一瞬で外側に開きます。また、機内は紙くずやらごみが散乱して大変な惨状になりますが、123便の生存者からはそのような話はなく、また、乗客が撮影した写真からは酸素マスクが上から落ちてはいますが極めて静穏な機内が映っていました。この写真は事故調のファイルから見つかったものですが、藤田さんもこの写真の存在をご存じでしたが、出所を問われて資料提供者に迷惑がかかるのを怖れたものと考えられ、著書ではついぞその存在を明らかにしていません。藤田さんは偉い人です。サムライです。蛇足ですがこの人、パイロットの賃上げ闘争をして、時の中曽根首相のフライトをストライキでキャンセルさせた張本人の一人です。そのときのJALのてんやわんやを描いた山崎豊子の「沈まぬ太陽」に詳しく書いてあります。藤田さんは定年まで機長になれず(会社の報復人事)ずっと副操縦士のままでした。でも、その操縦技量や卓抜した知識から機長以上にみなから頼りにされたひとです。また、組合からの資金で英国クランベリー大学で航空事故調査についての正式な授業をうけて卒業したひとでもあります。

画像出典:Wikipedia これが123便の乗客小川哲さんが撮影した機内の様子です。酸素マスクが下りていますが、極めて静穏な機内です。機内を台風以上の風が吹き抜けた(事故報告書による)ように見えますでしょうか?

画像出典:Wikipedia これは貨物室の扉が吹き飛んで急減圧になったユナイテッド航空B747-122の画像です。この事故では離陸後17分、高度2万2千フィートを飛行中、貨物室のドアが突然吹き飛び、乗客9人と機内備品などが外に吸いだされました。上記写真3番エンジン、4番エンジンには乗客が吸いこまれました。機内の状況は、めちゃくちゃです。これが急減圧事故です。

日航パイロット藤田日出夫でyahoo検索をしたところ、Wikipediaに出ていました。予想以上に有名人でした。また、画像検索したら本人の画像がでてきました。ネットって凄いです!

画像出典:Wikipedia 上段はご著書。下段はTV局の収録ですが、この部屋は伊豆のご自宅、事故調査研究室真っ青の機材(コクピットボイスレコーダーを聞く装置やDFDR(フライトレコーダー)の解析ができる装置など)を揃えたお部屋でした。

さて、B747SR-100型機の客室には、約1300立方メートルの空気が入っています。事故当時の飛行高度2万4千フィート(約8千メートル)では外気圧が地上の約4割程度です。そのため機体に穴が開くと室内空気が外に向かって激しく流出します。なお、機体は前部圧力隔壁と後部圧力隔壁で囲まれた操縦室を含む客室が必ずしも完全密閉ではないので、空気が外に漏出しますが、エンジンで作りだした圧縮空気を常に客室内に送りこむことで、地上気圧(約1気圧)に保つようになっています。なお、圧力が高くなりすぎた場合にはリリースバルブから空気を放出します。

圧力は体積に反比例するという物理法則(ボイルの法則)があります。圧力が40%の外気と同じ圧力になるということは、約1300立方メートルの空気の体積が約2倍の約3250立方メートルになります。機内には当然凄まじい風が吹きまくります。123便の後部圧力隔壁に2平方メートル(事故報告書による)の穴が開き、約5秒間(事故報告書による)で2000立方メートル(計算を容易にするために2000とした)の空気が噴出したとすると、直径2メートルの円柱状の空気の塊になると仮定して約1000メートルの長さになります。1000メーターのものが5秒で抜けていくということは、秒速200メートルということになります。台風時に秒速20メーターの風が吹いたとき、歩きづらいし傘はお猪口になります。その10倍の風です。シートベルトをしていない乗客は外に吸いだされます。当然機内備品類は全て外へ。また、123便の場合の減圧は断熱膨張といわれるもので、事故報告書では、約65度の気温降下が発生したとあります。とすると機内温度が約25度だったとすると、数秒間でマイナス40度まで低下したことになります。4人の生存者(非番の客室乗務員を含む)は誰一人として強風や温度低下について言及していないばかりか、事故調査委員会はこれらの証言をすべて無視しました。

123便事故原因 (故)藤田日出夫・大野の推測

後部圧力隔壁よりも垂直尾翼が先に壊れた!

あくまでわたしと故藤田日出夫さんの著書による意見です。B747SR-100型機は、垂直尾翼後部に方向舵が設置されており、アッパーラダーとロウアーラダーに2分割されています。方向舵はそれぞれ4本計8本の油圧アクチュエーターで保持されています。わたしたちの意見は、大阪の尻もち事故のとき、このアクチュエーターにひびが入り、1985年8月12日に遂に破断したものと考えます。破断すると、方向舵を保持するものがなくなって、約250ノット(約450km/h)の速度で風にバタバタと煽られる状態になります。これは、2つの事実で証明されます。

1.CVR(コクピットボイスレコーダー)に16Hzの振動が記録されていること

2.上下方向舵の接点部分に黒い圧着痕が認められること(要するに上下方向舵が激しくバタバタ煽られ、接点部分にある黒いゴムが擦られて金属部分に後を残したこと)

3.FDR(フライトデータレコーダー)に2秒半に5回、左右方向に加速度が記録されていること

方向舵が支え(油圧アクチュエーター)を失って、風にバタバタ煽られるようになることをフラッタ―現象といいます。過去フラッタ―現象で機体構造が破壊され墜落事故となった事例はたくさんあります。123便の場合は、アクチュエーターが壊れ、方向舵を機体につないでいるヒンジが一挙に破壊したものと考えられます。このときCVRに録音されている「どーんんん」という爆発音になったものと推定されます。そして、事故報告書とは逆に垂直尾翼が破壊されて、そして後部圧力隔壁へ破壊が進んだものと考えられます。したがって緩やかな減圧は発生したものと考えられますが、「急減圧」は発生しなかったと推定されます。

画像出典:Wikipedia 相模湾に沈んでしまった尾翼は、わたしの父、故大野健一が海洋科学技術センター(当時2017年現在は、海洋研究開発機構(JAMSTEC ジャムステック))で開発した「しんかい2000」で捜索されましたが、海流と逆方向を探しましたので、ほとんど発見されていません。いまでも海底に眠っています。

 

動画出典:youtube

なお、国際民間航空機構(ICAO)の取り決めでは、123便のような大きな事故の場合、収集した資料は永久保存となっております。ところが情報公開法成立(平成6年 1994年施行)を機に、1994年当時航空事故調査委員会首席調査官Wの命令(指令はもっと上のレベルからのようでした)のもと、次席調査官Sが「全て」捨ててしまいました! 羽田の保管室には十分なスペースがあったのに何故捨ててしまったのでしょうか?

 

事故で亡くなった520名の皆様のご冥福をお祈りいたします。

 

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