横須賀浦賀ドック(その2)日露戦争

07 11月 2016

鳥羽伏見の戦い~(箱館戦争)~戊辰戦争

明治維新は大英帝国の描いた筋書(アジア支配戦略)通りに事が進みました。徳川幕府には100万の兵があり、鳥羽伏見の戦いでは幕府軍一万五千人対薩長軍五千人です。山陽道を上ってくる薩長軍を征夷大将軍 徳川慶喜は大阪城で待ち受けていました。普通は装備が同じで三対一の軍勢なら誰が考えたって勝敗は明らかです。西郷隆盛は戦場の露と消えていた筈・・・・・。徳川慶喜は誰が吹き込んだのか、僅かな側近だけを連れて(連れられて?)夜中に大阪城を抜け出し、誰が用意したのか(夜間航行はとても危険でしたので周到に準備されていた筈です)大阪湾から江戸に逃げ帰り、上野寛永寺に引き籠って『ボクちゃん、ここで謹慎しまーす』といって自分に従う兵を捨てました。そして、江戸での無血開城をして薩長軍は完全勝利を得ました。それなのに何故、上野で皆殺し、会津若松で皆殺し、そして箱館まで行って皆殺し。途中では岩倉具視があの小栗上野介忠順を殺しました。これはみなさんサムライの戦争のやり方ではありません。白人と支那人のやり方。そして榎本武揚ら旧幕府海軍を主体とする勢力は、もはや奥羽越列藩同盟の敗色が濃い8月19日になって江戸を脱出しました。慶応4年(1868年)8月26日仙台藩内の浦戸諸島・寒風沢島ほか(松島湾内)に寄港し、同盟軍及び大鳥圭介・土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力、約2,500人を収容し、10月12日に蝦夷地北海道)へと向かいました。北海道の松前藩は奥羽越列藩同盟側に属していましたが、7月28日に尊王を掲げた正議隊による政変が発生し、以後は新政府側に帰順していました。10月26日榎本は箱館五稜郭などの拠点を占領し、12月5日に北海道地域に事実上の権力を成立させました(通称、榎本政権または蝦夷共和国)。

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画像出典:Wikipedia 左:戊辰戦争戦跡図 何故英語なんでしょうか? 右:五稜郭本陣 薩長軍(新政府軍)に登楼を目標に砲撃されたとのことです。

浦賀船渠(ドック)

日清戦争開戦が1894年(明治27年)です。同年、外的に対する防御としての軍艦建造に対する浦賀奉行与力中島三郎助の意志を継ぎ、荒井郁之助榎本武揚塚原周造が中心となり、1897年(明治30年)に浦賀船渠が設立され、かつての浦賀造船所と同じ場所に工場が建設されました。同時期に同じ浦賀に東京石川島造船所の浦賀分工場(明治二十八年(1895)十月に浦賀分工場として建設に着手し、同三十一年に営業を開始しましたー世界に4つしかないレンガ積みドライドックー川間ドライドック)が建設されましたが、競合するような結果になったので後に浦賀ドック(川間分工場)に買収されました。

 

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画像出典:Wikipedia 浦賀船渠(ドック)

艦艇の建造は、日露戦争時に横須賀工廠から艦載水雷艇を受注したことに始まります。1907年(明治40年)に初めて駆逐艦「長月」を建造しました。その後も小艦艇建造を中心的業務としており、特に駆逐艦の建造で有名で、大阪にあった藤永田造船所と共に駆逐艦建造の名門であり、「西の藤永田、東の浦賀」と呼ばれていました(軽巡洋艦 2隻、駆逐艦 44隻、海防艦 11隻+2隻未完)。驚くべきは、青函トンネルができるまで、北海道と本州を結んでいた青函連絡船は、浦賀ドック建造でした。詳細は:1924年大正13年)に国内初の旅客兼車両渡船鉄道連絡船)として青函連絡船翔鳳丸」、「飛鸞丸」を竣工させました。両船の就航後の成績は良好で、その後も多くの青函連絡船を浦賀で建造することとなりました。(以上出典:Wikipedia)

 

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画像出典:Wikipedia 上:川間ドライドック 海水で底が見えない状態 (浦賀ドック川間分工場)下: 川間ドックがある住友重機ヴェラシスマリーナ

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画像出典:Wikipedia 左:1910年頃の浦賀 右:浦賀ドックで建造中の駆逐艦(五十鈴?)

 

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画像出典: 左:駆逐艦 五十鈴 右:軽巡洋艦 阿武隈

浦賀ドック沿革

  • 浦賀造船所
    • 1853年(嘉永6年) 幕府が浦賀造船所を設置
    • 1854年(安政元年) 「鳳凰丸」竣工
    • 1859年(安政6年) 日本初のドライドック建造、咸臨丸の整備が行われる
    • 1873年(明治6年) 水兵練習所を設置
    • 1876年(明治9年) 浦賀造船所廃止
    • 1885年(明治18年) 水兵練習所を浦賀屯営と改称
    • 1889年(明治22年) 浦賀屯営閉鎖、陸軍要塞砲兵幹部練習所となる。
  • 浦賀船渠
    • 1895年(明治28年) 10月に東京石川島造船所が浦賀に分工場の建設開始
    • 1898年(明治29年) 5月 陸軍要塞砲兵幹部練習所敷地を取得
      • 9月28日 創業総会
    • 1897年(明治30年) 2月 ドックの建設開始
      • 6月21日 浦賀船渠設立登記
    • 1898年(明治31年) 11月 東京石川島造船所浦賀分工場の操業開始
    • 1899年(明治32年) 11月 1号ドック完成
    • 1900年(明治33年) 1月 浦賀船渠の営業開始
      • 6月10日 新造第1船竣工
    • 1902年(明治35年) 8月 東京石川島造船所浦賀分工場を買収、川間分工場とする。
    • 1907年(明治40年) 浦賀で初の駆逐艦「長月」竣工
    • 1923年(大正12年) 7月 軽巡洋艦「五十鈴」竣工
    • 1924年(大正13年) 初の青函連絡船「翔鳳丸」竣工
    • 1925年(大正14年) 5月 軽巡洋艦「阿武隈」竣工
    • 1938年(昭和13年) 大日本兵器(株)設立。青島工廠の経営を委託される
    • 1943年(昭和18年) 2月25日 W型戦時標準船のモデル船として第四青函丸竣工
    • 1944年(昭和19年) 四日市造船所開設。翌年9月閉鎖
    • 1945年(昭和20年) 9月28日 第十一青函丸が戦後竣工第1船となる
    • 1948年(昭和23年) 8月31日 戦後初の旅載青函連絡船として「摩周丸」竣工、際立った豪華さを誇った
      子会社として玉島ディゼル工業(株)を岡山県に設立、船舶用ディーゼルエンジンの製作
    • 1955年(昭和30年) 敷設艇えりも竣工(戦後初の自衛艦建造)
    • 1961年(昭和36年) 記念館三笠修復工事完了
    • 1962年(昭和37年) 玉島ディゼル工業と浦賀船渠が合併、浦賀重工業となる
  • その後
    • 1969年(昭和44年) 6月 住友機械工業と合併し住友重機械工業浦賀造船所となる
    • 1971年(昭和46年) 追浜造船所(現横須賀造船所)開設
    • 1978年(昭和53年) 川間分工場は新造船から撤退、橋梁専門工場とする
    • 1984年(昭和59年) 日本丸竣工
    • 1984年(昭和59年) 川間分工場閉鎖。跡地は現在マリーナ
    • 2003年(平成15年) 3月12日、浦賀で最後の建造となる護衛艦たかなみ」竣工
      • 3月31日 浦賀工場閉鎖

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