坂本龍馬夫人お龍(りょう)さんのお墓は横須賀

30 9月 2016

アメリカ海軍太平洋軍第7艦隊の母港は横須賀にあります。
横須賀は明治の昔から大日本帝国海軍横須賀鎮守府となっており、日露戦争で大活躍した戦艦三笠が記念艦として三笠公園に鎮座しています。横須賀と海軍は切っても切れない縁で結ばれています。
この話は、本トピックスで取り上げる内容の話題ではありませんが、わたしが横須賀在住ということでご容赦願いたいと思います。
また、以前、2016年9月28日の『黒船の砲艦外交』のときに坂本龍馬の真実についてお話しするお約束でしたので本投稿で取り上げさせてもらいます。

 

坂本龍馬
坂本龍馬 
出典:Wikipedia

坂本龍
坂本龍 
出典:Wikipedia

坂本龍馬の妻お龍さんは、龍馬が暗殺された後、流れ流れて横須賀に定住し、横須賀大津村の庄屋西村松左衛門と再婚しました。亡くなった時には大日本帝国海軍葬として大津の信楽寺(しんぎょうじ)に葬られました。

さて、坂本龍馬、司馬遼太郎さんの小説『竜馬が行く』では幕末の風雲児として取り上げられていますが、真実の姿は別のようです。

まず、土佐の一介の脱藩浪人が何故亀山社中や大政奉還のような大舞台で活躍できたのかみなさん不思議に思われませんか?
その答えは長崎のグラバー邸主人トーマス グラバーにあります。

 

トーマスグラバー(右)と岩崎弥太郎(土佐藩士 三菱創始者)
トーマスグラバー(右)と
岩崎弥太郎(土佐藩士 三菱創始者)
出典:Wikipedia

勝海舟
勝海舟 
出典:Wikipedia

トーマス グラバーはアヘン商人ジャーデン マセソン商会の長崎支店番頭さんです。日本人の妻を貰って蝶々夫人としても有名ですね。
当時、アメリカの南北戦争が終了して、大量の鉄砲が余り、上海で流通していたのをグラバーが龍馬に買わせたものです。その鉄砲7800挺を長州藩に売ったわけです。いわば龍馬は武器商人グラバーの日本における代理人でした。
また、脱藩しているにも関わらず土佐藩とは濃密な関係を保ち、土佐藩主山之内容堂は、陰ひなたなく龍馬を支援しました。龍馬が亀山社中を興してからは三菱の創始者であり、会計の天才岩崎弥太郎(グラバーと非常に近い)を会計責任者として付けたりしました。薩摩や長州だけでなくお龍さんを伴ってあちらこちらに武器を売り歩くうちに、勝海舟や横井小楠、大村益次郎など様々な国士と会って啓蒙され、次第に国を思う国士に変身していきます。

しかし、グラバーにとっては、自分の思い通りにならない龍馬が商売の邪魔になってきます。
グラバーはスコットランド出身の白人ですから、アジア人や黒人は人間ではないのです。
だから龍馬はコマの一つですから暗殺しようが何しようがあまり関係ないのです。
邪魔なら殺す。
そしてグラバー主導(と思います)の近江屋における龍馬、中岡慎太郎そして山田藤吉3人の暗殺となっていきます。
維新の志士にしてみれば龍馬は武器商人の手先であり、下手人が誰か知っていても、あえて誰も何もいわなかったのではないでしょうか?

大体龍馬は拳銃を所持していましたが、誰からもらった??
歴史の真実を知ることはとても大事なことです。

事実長州ファイブ井上聞多(井上馨)遠藤謹助山尾庸三伊藤俊輔(伊藤博文)野村弥吉(井上勝)のように密航(つかまれば死罪)してまでロンドンに留学したひとたちを導いたのはグラバーです。それには勿論冷徹な計算がありますが。
何故かというと明治維新というのは政権転覆です。
政権転覆の後革命家を支援していれば、当然その人たちはスポンサーのいうことを聞くでしょう?
すなわち、グラバーのためにイギリスのために利するような政権になっていくことは疑いの余地がありません。
それはイギリスの書いた設計図通りとなっていくことに他なりません。
この5人はロンドン大学に長州ファイブとして銅像があります。
だから龍馬をヒーロー扱いするのは一面からの偏った見方に過ぎません。
ただ、黒船来航以来、江戸幕府に300年の平和に頚まで漬かった幕吏に当事者能力があったかどうかは疑問ですが、幕府にも小栗上野介や中島三郎介(浦賀奉行)榎本武揚など立派な人材がいたこともまた事実です。なかでも小栗上野介忠順は、幕臣としてイギリスに対抗してフランスに肩入れしました。

 

小栗上野介忠順
小栗上野介忠順 
出典:Wikipedia

浦賀奉行 中島三郎介
浦賀奉行 中島三郎介 
出典:Wikipedia

幕末の1865年、坂本龍馬がグラバーの手引きで銃を長州藩に売却しようとしていた時、小栗上野介忠順(当時勘定奉行)はフランス公使レオン ロッシュ(薩長との徹底抗戦派)を介して近代的な幕府軍隊の創設と横須賀製鉄所を建設するためにフランス人技師レオンス ヴェルニーを招聘しました。
いまも横須賀の町にはヴェルニー公園として海上自衛隊(旧横須賀鎮守府)の横に記念されており、市民の憩いの場所になっています。
この横須賀製鉄所は後に横須賀海軍工廠として戦艦長門、空母信濃など多数の軍艦を建造しました。
この場所は、いまは米国海軍第7艦隊の母港となっています。

余談ですが、横須賀にはもう一つ造船所があります。
浦賀ドック(明治30年1897年設立)です。

ここはペリー来航後の1859年にドライドック(幕府浦賀造船所、浦賀奉行中島三郎介、明治9年閉鎖)が完成しています。レンガ積みのドックとして現存しますが、川間ドック(浦賀の現住友ヨットマリーナヴェラシス内)と並んで明治期のドックとして有名です。
幕府の造船所として鳳凰丸や咸臨丸の改修工事などを手がけましたが、横須賀製鉄所に本拠を移したため、一旦閉鎖後明治30年に浦賀ドック(上記)として再興されました。

なお、小栗上野介忠順は、徳川慶喜の恭順に反対して薩長との徹底抗戦を主張したため、慶応4年罷免されて薩長官軍の濡れ衣もいいところの罪で斬首されました。
このとき江戸の無血開城を誰よりも強く望んだのは、江戸の街を焼け野原にしたくなかったイギリスではなかったかと思っています。
わたしはイギリスが坂本龍馬、勝海舟、西郷隆盛らを動かして無血開城を実現したのではないかと思います。

こうして公平な目で金の流れ(利害損得)を追っていくと、誰が身を捨てて日本のために一番働いたか良く解ってきます。
明治維新というのは、下剋上クーデターです。明治の元勲は、ほとんどが足軽など身分の低い階級の出身者です。
その後日本は富国強兵を目指し、外国との利害相反により70年間戦争ばかりの国でした。
これから戦争をしたくなければ核武装をして世界一強い軍隊を装備しなければなりません。
平成のゼロ戦(F2)や潜水艦蒼龍などの完成により、軍備ではそれが可能なところまで漸くきました。
そして天皇陛下が国のために命を捧げた英霊をごく普通にご供養するために靖国神社に参拝できるようになることを強く望みます。

 

横須賀製鉄所

横須賀製鉄所 
出典:Wikipedia

浦賀ドック

浦賀ドック 
出典Wikipedia

現在の住友重工浦賀造船所(浦賀ドック)

現在の住友重工浦賀造船所(浦賀ドック)
2003年閉鎖 
出典:Wikipedia

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