わたしも調布空港で一緒に飛んだことがあります。穏やかで控えめなご性格で、さすが歴戦の勇士です。 高橋さんが言われた言葉で今も忘れられないのが「男が一日外に出たら最低1万円は使うよなぁ」でした。
エアラインには行かれませんでしたが、96歳で飛行機に乗っているというのは最早人間ではないですね。
いつも元気、いまも現役(プロパイロット 髙橋淳さん)
公開日:2019年11月29日 09時00分
更新日:2019年11月29日 09時00分
パイロット志望が太平洋戦争で一変
“飛行機の神様”と呼ばれる95歳の現役パイロット、髙橋淳さんがいる。「今でも天気がよければ毎週、静岡の飛行場に行って、飛行機に乗っていますよ」
身長180センチと、この年代では大柄な身体だが、体重は60キロとスマートな体形。しゃれたシャツにスリムなGパンを着こなし、颯爽と大股で歩く。これまでの飛行時間は2万5,700時間以上、飛行距離は実に地球130周を超える。
「よく俳優が『舞台で死にたい』というでしょ。それって周りには実に迷惑な話です。私は『飛行機で死にたい』なんて絶対にいいません。安全に飛んで、無事に帰ってくることが一番大事です」
祖父は日本で薬学博士第1号となった医師の髙橋秀松、父も大学卒後、ドイツに留学した医師。4人兄弟の末っ子として生まれたが、上の姉とは9歳も離れていたため、まるで1人っ子のようなお坊ちゃん育ち。
東京・赤坂溜池に髙橋病院を持ち、霊南坂に本宅、大森、箱根などに別荘を構える裕福な家庭で、大森の生家には硬式テニスコートがあった。目黒の競馬場にも馬を所有していたという。
髙橋さんは子どもの頃から模型飛行機づくりに夢中になるなど、大の飛行機好き。16歳のときに新聞社が主催するグライダーの講習会に参加し、初めて操縦体験をした。それからパイロットになることを心に決めた。
「どうせ大学に行っても20歳で徴兵検査を受けることになる。それならと海軍飛行予科練習生になろう。4、5年経ったら民間のパイロットになると考えていました。当時、予科練に入るには大変な倍率で、本気で勉強したのはその時でした。おふくろは『どうせ音を上げて1、2か月で戻ってくる』と思っていたようです」
翌年、太平洋戦争が始まって状況は一変した。
「何としても生きて帰ってくる」と部下に「遺書は書くな」といいました
乗ったのは一式陸上攻撃機という翼の長さは25メートル、胴体が20メートル、重さは15トンと、海軍一の大型攻撃機。YS11を少し小ぶりにした大きさだ。
乗組員は操縦士、副操縦士、ナビゲータをする偵察員、整備員、無線通信員2人、そして一番後ろで機関銃を構える兵士の計7人が本来の編成だ。しかし、昭和18年の秋頃から負け戦が続いて、この大型機を副操縦士と無線通信員1人ずつ抜きの5人編成で行うことになった。
「通常、副操縦士を経験してから正操縦士になるはずだったのが、いきなり正操縦士、キャプテンですよ。敵艦に魚雷を落とすのも操縦士です。甲板の上の大砲は下を向かないから、敵艦のすぐ前まで海面3メートルの超低空で近づいて魚雷を落とす電撃作戦を行っていました。敵艦からは雨あられのように弾が飛んでくる。それを避けるテクニックが『横滑り』といって、機体を横にスライドさせる。体がちぎれるような強烈な横Gがかかる、とても危険な操縦法です」
魚雷が当たるのは2割くらい。しかし、10機飛び立ったら、半分の5機は帰って来られなかった。とても割に合わない作戦だ。
「僕が死んだら乗組員も死ぬ。何としても生きて帰って来ようと、部下に『絶対に殺させない。遺書は書くな』といっていました」
「終戦のときにはとうとう鹿児島の基地には僕の飛行機1機だけになりました。予科練同期の840人はわずか100人少々です。出撃前に敵機だらけの空を見て、『今日は危なそうだ』といった人や、遺書を書いていた人は生還できませんでした。なんとなく出撃前にわかるものです。すでに精神的に負けてしまっていたからでしょう。
よく『運がいい』といわれますが、運は待っていても来るものではありません。最善を尽くすから来るものです。パイロットはパニックになったら終わりです。精神力が強くないといけません」
米軍はパイロットの体を守るために防弾設備がしっかりしていたが、日本の海軍は機体を軽く性能をぎりぎりまで追求したため防弾設備はなかった。
髙橋さんの飛行機は何10発も被弾したものの、エンジン、燃料タンク、乗組員には被弾せず、墜落は免れた。
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