心願成就祈願(横須賀東叶神社)

18 11月 2016

今日のウォーキングは、いつもと少し違って東叶神社で心願成就祈願を行いました。この神社の起源は、:

叶 神 社(かのうじんじゃ)
ひむかしの 丘の神樹の 八百重なす 厳神垣は畏きろかも


鎮守様、氏神様、明神様とさまざまな呼び名で親しまれている叶神社は鬱蒼と木々の生い茂る緑濃き明神山を背景に、神々しく鎮まりまして氏子全ての上にこの上ない御神徳を垂れ給うておられます。

御祭神:誉田別命(第15代応神天皇)

由緒:社伝によると、養和元年(1181)京都神護寺の僧文覚が源家の再興を発願し、石清水八幡宮を当地に勧請され、もし源氏の再興実現せし折は、永く祭祀を絶たざるべしと祈念したところに始まるとされています。
その後、文治2年(1186)には源頼朝公が源家再興願意成就の意を込めて神号を改め、叶大明神と尊称されたと伝えられています。
社殿に昇る石段の両脇に植えられている
蘇鉄はこの時に
頼朝公が縁深い伊豆の地より移植奉納されたと伝えられています。
以上創建の意を汲んでか、その後源家の当社に対する信仰はかなり篤かったと想像されます。このことは、当社に伝わる鎌倉幕府二代将軍源頼家公の銘の入った花鬘(けまん)からも容易に察せられるのです。(以上東叶神社のHPより抜粋)

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画像出典:大野一郎 右:東叶神社HPより出典

『源氏再興夢叶う』から源頼朝公が叶神社と呼び、日本全国ここと西叶神社だけが叶神社と呼ばれます。心願の内容は、『ペダル踏み間違い事故撲滅』です。当神社の御神職は、鴨居地区の八幡神社の宮司を兼職しておられます。また、突然お訊ねして祈願をお願いしたのにも拘わらず、すぐ昇殿して御祈願いただいたことは、大変嬉しかったです。江戸時代には、下田から奉行所が移され、奉行に任ぜられた武士は代々叶神社を崇敬し、春秋2期の大祭には、奉行自ら参詣され幣物を捧げられました。

昇殿する途中にある蘇鉄は、文治二年(1186年)に源頼朝公が伊豆の地より移植奉納されたとのこと、830年前の蘇鉄です。

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画像出典:西叶神社HPより

東叶神社のすぐそばには、有名な浦賀の旅籠『徳田屋』(関東大震災大正12年で崩壊)があり、有名な佐久間象山と吉田松陰が黒船が来た時に今後日本はどうすべきか語り合った宿屋です。浦賀は、東京湾の入り口ですから、地理的に非常に重要な地点です。また、対岸の千葉県富津までは約12kmしかありません。上空から見るとS字カーブのようになっています。

このような歴史の地に住める幸せを感じる日々この頃です。

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画像出典:Wikipedia 左:徳田屋 中:吉田松陰 右:佐久間象山 目が常人ではないですね。

吉田松陰の有名な辞世の句、:

「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」 (弟子たちに)

「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」   (家族に)

 

動画出典:youtube

明治維新の父ともいわれる吉田松陰ですが、イギリスの陰謀で主導された明治維新。しかし、吉田松陰は、確かに日本の将来を見つめて生きた偉人でした。この吉田松陰の末弟子であった足軽にも満たない山形有朋なんぞがかろうじて生き残って明治の元勲といわれ、日露戦争を率いてきたとは片腹痛い。閑話休題、支那をアヘンでボロボロに滅ばしてきたイギリス、アメリカが何故日本に対してアヘンを用いなかったか、わたしなりに解りました。支那はアヘンが国中に蔓延し人間が人間でなくなるような状態になりました。要するにイギリスアメリカが植民地にしようとしても搾取できない状態になっていたわけです。人が働かないから。事実、日清戦争では、兵隊が早くうちに帰ってアヘンを吸いたいという状態で戦争にはなりません。日本がすぐ勝利しました。しかし、清が惰弱だったのではなく、兵隊がアヘンでやられていたのです。日本をこのような状態にすれば、植民地にしても搾取できなくなるわけです。だから日本には内戦だけでアヘンは使わなかったのだと思います。そして、日本が日露戦争などの極めて厳しい状況を生き残れたのは、実に小栗上野介忠順の横須賀製鉄所があったからです。イギリスの命令で小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ)を殺した岩倉具視、自分を恥じよ。

 

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