横須賀浦賀ドック(徳川幕府浦賀造船所)その1

06 11月 2016

わたしは横須賀市浦賀(鴨居地区)というところ

に住んでいます。ここは、東インド会社北米支店所属艦隊(兼アメリカ合衆国海軍)のペリー提督率いる黒船艦隊が来航した場所として有名です。投錨した場所は、現在の鴨居港沖といわれています。浦賀湾は南北に長く伸びた細長い湾で、ペリー提督はそこが川の河口であると勘違いしたとも伝えられています。来航した目的は、クジラ漁のための補給基地づくりとも言われますが、トーマスグラバー(長崎出島)から情報を得ているジャーデン マセソン商会(Ruthchild)の意(金銭的バックアップ)を受けて来航しているのでそれは表向きの理由にしか過ぎないと思います。本意は日本支配計画にあったでしょう。日本人は黒船にショックを受けましたが、それだけではなく黒船を徹底的に研究し、その造船水準に追い付こうとしました。もともと四周を海に囲まれ、千石船なども造船していた日本です。浦賀奉行所与力 中島三郎助は、通訳を連れて黒船に乗り込み、蒸気機関や船腹の状態その他を徹底して調べました。幕府は、長年の平和ボケで戦闘能力は低かったかもしれませんが、バカではないです。

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画像出典:Wikipedia 左:浦賀湾地図 右:浦賀ドック東側から西側を撮影

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画像出典: 2016年11月7日 大野一郎撮影 左:西浦賀から浦賀水道を臨む。 右:西浦賀から住友重工浦賀ドックを臨む。最近(2016年)遊歩道が整備された。上の画像と見比べると遊歩道の整備前後がお分かりになります。

 

幕府は大船の建造を慌てて許可ー

幕府は島原の乱(キリシタン大名天草四郎)のあと、寛永十二年(一六三五)以後、五百石積み以上の大船の建造を禁止していましたが、嘉永六年(一八五三)六月、ペリー来航によって突然泰平の夢を覚まされ、驚きあわてて、以後、諸大名に大船建造を許可しました。このおふれの後で、最初に幕府で建造した船は鳳風丸でした。嘉永六年(一八五三)十一月二日浦賀で計画され、造船委員には勘定奉行の石川土佐守、松平河内守、目付堀織部正、勘定吟味役竹内清太郎、中島三郎助が任命されています。長さ二十二間(約39.6m)の帆船で翌年の五月(1854年)に完成しました。さらに水戸でも斉昭(なりあき:藩主・副将軍)が大船の建設を計画し、安政元年(一八五四)一月二日、石川島(隅田川河口)でわが国最初の洋式大型船、旭日丸の起工式を挙げました。安政元年十一月、旭日丸の外部構造はほぼ完成しました。安政二年一月二十二目進水を終え、二月十六日には船霊祭を石川島で挙行しました。旭日丸の長さは百二十六フィート(約38.4m)、幅三十二フィート(約9.7m)、深さ二十四フィート(約7.3m)、船体は堅牢で、厳談、装飾も優秀だったが、船が大きくて舳が重く、敏速ではありませんでした。旭日丸は石川島造船所で造られた最初の船としてだけでなく、日本人が完成させた最初の洋式木造バーク(三本マスト船)としても意義があります。

 

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画像出典:Wikipedia 左:鳳凰丸(浦賀造船所)右:旭日丸(石川島造船所)

黒船の来航を境にして、徳川幕府には海外に対する『国』という概念が生まれてきたのは当然のことです。

東浦賀

東浦賀は江戸時代の初め頃から船大工も多く造船に適した土地でした。さて、浦賀は港としては東西浦賀の中間に湾入していて、背後に山を負い、風波をさえぎり、船舶の碇泊には便利なところでした。享保五年(一七二〇)二月浦賀番所が設けられてからは、洋式艦船を目撃する人も多く、実際に乗り込んで洋式船の研究をする人が出てきました。そこで幕府は慶永六年(一八五三)、浦賀に造船所を造り、大型船の建造を命じました。その場所は東浦賀の大ヶ谷(現在の経緯級浦賀駅そば)でした。嘉永七年、幕府は木造三本マスト帆船ハーク「鳳凰丸」を起工しました。この船はのちに石川島造船所で改造され、明治二年(一八六九)に箱館戦争(戊辰戦争の続き)で官軍に奪われました。

浦賀造船所は幕府が力を入れなかったためか、造船所に適しなかったためか、事情ははっきりとはわかりませんが幕末までに建造した船は鳳風丸一隻でした。咸臨丸の修理すらも完全には行なっていません。安政四年(一八五七)軍艦操練所が築地に設置された頃から、艦船の修理が必要となり、浦賀造船所はもっぱら艦船の修理にあたりました。
なお、幕府は長崎にも造船所を建設しようと考え、文久三年(一八六三)長崎立神郷に軍艦打建所を建設しましたが、国情が複雑な折から、長崎のような遠隔地では急の間に合わないという理由で、石川島造船所(東京都江東区隅田川河口)の設備の拡充を急いだといわれています。

日本人だけで造った蒸気軍艦 千代田形

幕府は国防のために砲艦二十隻を建造する案を立て、その第一号として石川島造船所で建造に着手したのが、軍艦千代田形で、日本人だけの手で完成した日本最初の蒸気軍艦です。

画像出典:Wikipedia 土屋重朗(つちや・しげあき)http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki2/hida3.htm#4

千代田形のキール釘締めの式が文久二年(一八六二)五月七日、、慶応二年(一八六六)五月に完成しました。千代田形は総工費およそ七万円、船体は木造二本マストスクーナー型で、長さ九十七フィート(約29.5m)、幅十六フィート(約4.8m)、吃水六・八フィート(約1.9m)、排水量百三十八トン。メインエンジンの型は横置き歯車増速装置機で二気筒不凝式(non condensing 蒸気を凝縮させて水に還元しない)で六十馬力、速力五ノット、備砲三門でした。エンジン製作者の肥田浜五郎が幕命で製作途中にオランダに渡航したりしたため、千代田形の完工には四年を要しました。

この千代田形は完成二年後の慶応四年(一八六八)八月、海軍副総裁榎本釜次郎(武揚)のひきいる艦隊に加わり、やがて反乱艦隊として箱館に向けて品川を脱走したが、箱館戦争のあと、二年五月官軍につかまり、新政府の軍艦に編入され、明治二十一年(一八八八)廃艦となりました。

横須賀製鉄所の建設が決定

一、製鉄所一ヵ所、修船場大小二ヵ所、造船場三ヵ所、武器庫および役人、職人の役所とも四ヵ年で落成のこと。
二、横須賀港の地形は地中海の海岸のツーロンに似ているので、造船所はここに建造の様式にならって、およそ横四百五十間(約810m)、縦二百間(約360m)とする。
三、製鉄、修船、造船の三局を取り建て、その諸人用総計およそ一ヵ年六十万ドル、都合四ヵ年二百四十万ドルで結成のこと。
なお両国政府の許可を得て、公使は上等器械官ウェルニーに専任を命じ、日本の勘定奉行松平対馬守、軍艦奉行木下謹吾、目付山口駿河守、栗本願兵衛および浅野伊賀守にもっぱらその取り扱いを命じ、両国協力して完成を急ぐこと――

これらは勘定奉行 小栗上野介忠順が新任のフランス公使ロッシュと組んで実現させたものです。薩長軍がイギリスと手を組んで政権転覆を図っていることから、これに対抗する意図があると思われますが、明治維新後は小栗と薩長のどちらが日本の将来のためになったのか明らかです。そして、日本のために素晴らしい仕事をした小栗上野介忠順は大政奉還後、岩倉具視の東山道鎮撫軍に斬首されました。何故、小栗を殺さなければならなかったのか非常に疑問に思います。連合艦隊司令長官だった東郷平八郎元帥は薩摩海軍の出身ですが、日露戦争後小栗の子孫に『日本がロシアに勝てたのは、小栗上野介忠順が横須賀製鉄所を建設したおかげです』と感謝をしています。フランス人ヴェルニーの助けを借りながらも日本人が自力で築いた横須賀製鉄所、後には横須賀造船所となり、多くの軍艦を建造しました。

横須賀浦賀ドック(その2)に続きます。

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画像出典:Wikipedia 明治初期の横須賀製鉄所

 

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画像出典:Wikipedia 横須賀製鉄所あと、現在はアメリカ海軍横須賀基地 明治期に建設されたドライドックは、現在(2016年)も米軍艦船の修理に使用しています。

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