浦賀の東西叶神社と渡し船(享保10年 1725年 より)

23 10月 2016

全国でも叶と名前の付く神社はここだけだそうです。そう聞くと何か嬉しいですね。この神社は、源氏の再興を願って京都石清水八幡宮の心霊を迎えたことに始まるといわれ、その後、源頼朝によって、その願いが叶ったことから叶大明神の名で呼ばれるようになりました。雨が降らない限り毎日参内し、願が叶うようにお祈りしています。願い事をかなえるためには、健康と体力です。その一万歩ウォーキングコース(約7km)の真ん中あたりです。

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東西叶神社ロケーション 画像出典:ギャザリー http://gathery.recruit-lifestyle.co.jp/article/1143251887357634801/page_2#auto

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東叶神社 鳥居及び神殿 画像出典:ギャザリー http://gathery.recruit-lifestyle.co.jp/article/1143251887357634801/page_2#auto

ここには、徳川幕臣、ポーハタン号随伴咸臨丸(正使・新見正興、副使・村垣範正、目付・小栗忠順)にて 教授方頭取(要するにぺいぺい職)勝海舟が航海の安全・成就を願って『断食』したと伝えられる万延元年(1860),過酷な冬の太平洋を初めて航海するにあたり,東叶神社・社務所裏の井戸で水垢離をした後,明神山(神殿の裏山)の山頂付近で断食をして,航海の安全を祈願したと伝えられています。(既報トピックスで勝海舟が軍艦奉行の地位を追われたので断食したと書きましたがそれは誤りでした。すいません)

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勝海舟サンフランシスコで撮影、明神山(東叶神社裏山)山頂付近、勝海舟断食の地 画像出典:http://syakeassi.doorblog.jp/archives/44359641.html

わたしもそうですが、昔の人は、信心深かったのですね。ただし、お寺で祈ることはありませんでした。常に神社です。生きることは神社、死後の魂はお寺だったのですね。だから明治のころまでは神仏混淆で表裏一体でした。わたしはそのころに戻したいです。

 

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画像出典:Wikipedia 西側愛宕山山頂から高知屋造船所後に建設されたマンションミレニアム

お祈りが終わって、すがすがしい気持ちで神社を後にして右に歩いていくと享保10年(1725年)から続く『浦賀の渡し船』があります。渡し船の運賃は大人200円(2016年10月現在)ですが、船長さんに聞いたところ昔、和船の頃は、櫓が漕げる人は無料だったそうです。わたしが浦賀に来たばかりのおよそ25年前は大人50円でした。

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この写真を撮ったのがいつごろか良く解りませんが、大人150円になっていますね。また、今は秋のせいかもしれませんが夕方5時で終わりです。出展:ギャザリーhttp://syakeassi.doorblog.jp/archives/44360067.html

 

動画出典:https://www.youtube.com/watch?v=yBleX_6kORk ポンポン船

 

動画出典:https://www.youtube.com/watch?v=yMwlxS-EgL4 西から東への航路です。この航路は横須賀市道になっています。

さて、今度は西叶神社です。

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出典:ギャザリー 昔、浦賀の奉行所があったところはこの西の方です。中島三郎助は、浦賀奉行所与力でした。

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出典:Wikipedia 浦賀奉行所与力 中島三郎助 中島三郎助の墓所 東林寺

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浦賀奉行所復元模型 出典:Wikipedia

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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